弥生時代中期-後期の倭国王 <歴史・弥生時代・人物>
帥升は、弥生時代中期-後期の倭国王『後漢書』孝安帝紀東夷伝に、安帝の永初元年、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきたとの記述があり、
これが帥升に関する史料の全てである。
帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。
そのため、帥升が日本史上に現れる最初の人物とされている。
帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。
帥升に先だって、57年に倭奴国の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から印綬を授けられているが、帥升については生口を献じ謁見を請うたことしか記述がない。
このことから、倭奴国は後漢に王として承認されたが、帥升は王と認められなかったとする説がある。
一方、『後漢書』に「倭国王」と記載されていることを根拠に、倭国王として認められていたとする説もある。
「帥升」が、姓名であるのか、名であるのかは議論が分かれている。
中国に「帥」という姓が非常に希なため、「師」升の誤記ではないかとする説もある。
同様に「升」を「斗」の誤記とする説もある。
これが帥升に関する史料の全てである。
帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。
そのため、帥升が日本史上に現れる最初の人物とされている。
帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。
帥升に先だって、57年に倭奴国の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から印綬を授けられているが、帥升については生口を献じ謁見を請うたことしか記述がない。
このことから、倭奴国は後漢に王として承認されたが、帥升は王と認められなかったとする説がある。
一方、『後漢書』に「倭国王」と記載されていることを根拠に、倭国王として認められていたとする説もある。
「帥升」が、姓名であるのか、名であるのかは議論が分かれている。
中国に「帥」という姓が非常に希なため、「師」升の誤記ではないかとする説もある。
同様に「升」を「斗」の誤記とする説もある。
update:2010年06月04日
